絶望とは

絶望したことありますか。

 

「絶望」・・・そのまま訳せば望みが断たれた様

 

しかし、ことあるごとに「最悪!」と口にするとき、傍から見れば実際には最悪な状況でないように、「絶望」においてもそれは相対的で主観によって程度は変わります。

シェイクスピアが、どん底に落ちた言えるうちはまだどん底ではない、と言ったように絶望を口にする人もほとんどの場合はまだ望みがある状態といえます。

 

本当の絶望とは、そのコトに対する執着が完全に断ち切れた時にしか存在しません。そこに少しの望みもないと理解した時、人は別の選択肢に移ることができ、その時に初めて望みにしがみついているという「執着」した状態から解き放たれ自由に動けるようになるのです。

叶うことのない期待を他者に抱くことで絶望は生まれ、期待を手放すことで絶望から解放される。絶望を感じた時、何かにすがって恐怖を紛らわせようとするのはなんの解決にもならないのです。

 

程度の差こそあれ、人はいずれ絶望するものであり、絶望するから人間であるといえます。絶望していると思えない人も絶望していることはあるし、順風満帆に見える人が絶望しているという自覚を持ち得ていない場合もまた絶望(無知)といえます。

 

人は生きている限り「自己(精神・魂)」が付きまといます。肉体は死ぬことができても自己は死ぬことができません。

キルケゴールは、「絶望とは死に至る病である。自己の内なるこの病は、永遠に死ぬことであり死ぬべくして死ねない事である。それは死を死ぬことである。」と言いました。

 

自分の運命を自分で決められないことが絶望であり精神の死であると。運命を諦めてしまうと死んでしまうが、魂は死ねないから永遠に死ねない状態をさまよう。

ここでいう本当の絶望とは、主体的に選んだ人生ではなく、大衆に迎合してしまうといった、誰かに操られた人生を選んでしまうこと。自分自身と神とに向き合い、自らの意思で人生を選択しなければ絶望から逃れることはできない。

 

絶望とは、自己の在り方を問うきっかけになり得るようです。

 

 

前置きが長くなりましたが、今回はお料理の記事です。

 

 

「絶望している時でもおいしく食べられる」

 

これが名前の由来となっている、洋麺屋ピエトロの『絶望パスタ』をご存知でしょうか。

僕はつい最近知りまして、名前のインパクトがすごいのでやっぱり食べてみたいじゃないですか。商品名でハードルの高さを棒高跳びくらいに上げてしまっている無謀なパスタソースをパスタ好きなら食べないわけにはいかないじゃないですか。

早速スーパーへ探しに行ったのですが、マルナカ、マルヨシ、コープ、、、どこにもない。ピエトロのパスタソース自体がない。ピエトロドレッシングはどこにでもあるのに。

やはりハードルを上げすぎたためにクレームがきたのか。

 

 

 

Amazonで取り寄せようとしたら平気で一週間かかる。さらに送料が756円。

無理だ。待てない。

もう絶望パスタを食べる口になっている。

早く食べたい。

しかし元の味が分からない。

 

これこそ絶望ですよ。

 

 

そこで、ピエトロの商品ページで原材料を調べて作ることにしました。

<原材料>

野菜(玉ねぎ(国産)、にんじん、セロリ)、食用植物油脂、マイワシフィレ(素揚げ)、ドライトマト・オイル漬け、にんにく、オリーブ、食塩、昆布茶、ブラックペッパー、唐辛子、タイム/調味料(アミノ酸等)、増粘剤(加工デンプン)、(一部に大豆を含む)

 

 

 

まず、

玉ねぎ、にんじん、セロリ、ニンニクのみじん切り、鷹の爪、アンチョビをオリーブオイルでじっくり炒めていく。

 

じっくり炒めたくない人は ゆで汁をいれて茹でて野菜に火を入れてください。

 

 

次にその他の具材をいれます。

いわしはこれを使いました。

また写真を撮るのを忘れていて、開けてから気づいたためプルタブが上がっています。

この物撮り作業が非常にめんど○○〇。

 

あと、この前のセミドライトマトのオイル漬けを入れる。

 

あとタイムがあれば入れる。

ソースに直接入れてもいいし、仕上げに散らしてもいい。

 

あとは昆布茶、ナンプラー、ブラックペッパーで味付けして

 

できあがり。