『パリ20区、僕たちのクラス』

つい先日レンタル開始となったパリ20区、僕たちのクラス

注目すべきは、誰一人演技経験のない24人の子供たちと教師役の大人たちが出演した映画であること。人間は生まれながらにして役者なんだということを実感させられます。

本作を見ている途中、舞台となっている教室は学級崩壊するんじゃないの?、と思っていましたが・・・。ここ香川県でも小学校や中学校で学級崩壊が多発していると聞くので本作で何か得るものがあれば、と思いながら鑑賞。舞台はパリの中学校。中学生という多感な時期にいろいろと事が起こるのは国は違えどどこも同じ。しかし本作では以前紹介した映画「告白」で見る中学生とは少し違う。なぜならそこは多種多様な人種・民族・宗教が混在している教室だから。

わかりやすいところでいえば、西洋の個人主義の場合、相手が誰であろうと自分の意見をはっきり言うのに対し、日本人は相手との関係性によって自分の意見を変える。自分の本当の意見を消してしまうということ。

他にも学歴とか肩書きを重視するのも日本人。いい大学に入るためにハイテクカンニングをする人もいるわけで。高学歴とか資格をいっぱい取るとか、そういう鎧を着込んでいくことで他人に自分への判断を任せてしまおうするのもまた日本人特有なもの。

んなこと言ったって自分で好んで日本に生まれてきて、日本の常識の元で、親の常識によって育てられるわけだから仕方ない。でもそこに気付いた時、その常識という鎧を脱ぐこともできるわけだ。そう簡単ではないけど。


ヘタな感想を書くのもなんなんで今回はオフィシャルホームページ からこの映画の詳細などを転載します。


教師フランソワを演じるのは、本作の原作となった「教室へ」の著者であるフランソワ・ベゴドー。元教師で、自身の体験を基に、中学校での1年間を綴ったその小説は、“本当の教室が赤裸々に描かれている”と話題を集め、センセーションを巻き起こした。子供たちを演じるのは、パリ20区のフランソワーズ・ドルト中学校の生徒たち。


すべての10代の子供たちにとって、国語とは生きるための言葉を学ぶこと。それは、他人とのコミュニケーションを学び、社会で生き抜く手段を身につけることでもあるのだ。言葉の力を教えたいフランソワにとって、生徒たちとの何気ない対話の一つ一つが授業であり、真剣勝負だ。彼は生徒たちを人として対等に扱おうとするあまり、彼らの未成熟さに苛立ちを抱いてしまう。生徒たちは、あまりにも率直なフランソワの言葉に、時には傷つき、反発し、時には勇気づけられる。弾けるような笑いと抑えられない怒りが、分刻みに交錯する多感な24人の生徒達と、教師とは何かを模索し続けるフランソワは、この1年間でいったい何を学ぶのか──?


様々な人種の子供たちが、ぶつかりながら生きている教室──これこそが、現代社会の縮図だ。希望も絶望も同じくらい存在するこの世界で、それでも何かを学び取り、成長を成し遂げる子供たちの姿に、私たちは未来の希望を見出さずにはいられない。

                  転載終わり


というように、まさに赤裸々な学校を見ることができます。

生徒の本音のみならず教師の本音もぶちまけられているし。こういう教育現場があるということです。外国の、そして多人種の、という特殊な環境ではありますが日本と比べてみても基本は同じなのかなと。

ですので、年頃の子を持つ親にも、面と向かってあまり本音を言えない日本人にとっても刺激的であるはず。

例えば、酒の席でしか上司に対する不満を言えない大人、を思い浮かべてみた場合、お酒の飲めない不満の溜まった子供はどうすればいいのか。一つの手段として授業中に好き勝手に席を離れて騒いでみたくなるのかもしれない。(単に躾の問題に収まる場合もあるとは思いますが)

あと驚いたのは、人は違っていて当たり前という考え方のフランスでは、日本のように“異質なものを排除する” タイプのいじめが存在しないということ。

しかし国が違っていても同じなのは、先生は生徒に世の中をうまく生き抜く方法を教えているつもりではいるが、同時に生徒に教えられており、教師と生徒はお互いに教育し合う関係性が自然に成り立っているということ。


このお互いが助け合っている状態というのは誰にとっても嬉しいものだと思います。なにより助け合うことは争いを生まない。

生徒(子)が先生(親)を育てるという関係は、先生(親)による生徒(子)への教育をより円滑にストレス無く進めることができます。なぜならお互いが嬉しい状態だから。生徒自身が先生を育てる側にまわるという自覚を持てた時というのは、先生が生徒(自分)を良い人間になるよう育てようとしてくれていることに気付いた時なんですね。