記憶

はやい…あまりにも早すぎる。スマートフォンって必要ないよな…と思うまでが。
どうシュミレーションしてもスマートフォンを手玉に取れない自分がいる。
1週間ほど旅に出ます…心の。パソコンの電源すら入れません。

半分本気です。


さて、今日は硬筆の上手な教え方ってどうすればいいのか、なんてことをいつものように左手で歯を磨きながら考えていたら、子供ってのはまさに今この左手で磨く自分の状態なんだなと気付いたわけで。そんなこと当たり前じゃん、といわれればそうなんですが。大人になってしまってからだと子供のころの自分が書いていた感覚ってどうだったかとか思い返せないから。

ただそれだけなんですけどね。

でも確実に言えることは、ほぼ毎日(いや週4でもいい)やったらすぐ上達しますよ、ってことしか言えない。だって左手歯磨きだって確実に上達してるわけだから。2週間毎日やってみたらいい、正しい持ち方で。

とりわけ歯を磨くときの持ち方ってかなり複雑。前歯、奥歯それぞれ磨く場所によって持ち方も自然に変えていますよね。毎日やってると理に適った磨き方を自然に憶えるんですね。

そう考えると、人それぞれペンの持ち方(正しい持ち方以外の)はあるけど、それは理に適っているということなんだろうか・・・。いや違うな。

正しい持ち方へと強制的に直すよう促していると、その書きにくそうな様子を見ているだけでもけっこう辛いものがある。是非ともお箸を持てるようになった時からでも、正しい持ち方というものを教えておいて欲しいのが本音。

今のところ最初に正しい持ち方が出来ていたのは全体の2割(年中~小学5年生)


そういえばある小学校の高学年では書写の授業というものがあるにもかかわらず、書道の道具を持ってきていない生徒が多いと先生は授業を他の教科に切り替えるらしい。これは書道の授業が嫌な子どもは書道具をワザと忘れればよい、ということなる。それが許されるということに疑問を感じるし、そんなにユルくなってしまったのかという残念な気持ちにもなる。(逆に書道教室へ通うことの重要性も浮き彫りになっているようにも思う。)その一方で、文部科学省では「学校教育においては、こうした手書き文字の大切さを重視する観点から、新しい学習指導要領においては小・中学校の国語科書写の内容の改善を図っています。」

としている。


私の場合、学校の書写の授業ではある程度上手く書けていたから少なからず優越感もあり、気楽にできる授業でありほとんど遊び感覚だったから楽しかった。それは通っていた書道教室では真剣そのものだったからであり、そしてなにより母親が厳しかった。その厳しさで一番記憶にあるのは小学校の夏休みにあった農協のコンクール作品と時。高学年だったから半紙サイズではなくそれより大きい”条幅”作品をやった。ほとんど毎日書いて(書かされ)ボロかすに注意され泣きながら訳も分からず書いていたことしか記憶になく「農協=泣いていた」という方程式ができてしまっている。

おかげで金賞を受賞することができたけど。しかし私は本当に金賞がほしかったのかどうかはなぞ。


思い出話に花を咲かせてますが、教養というものはそういう意味とか訳が分からないときに詰め込まれるわけで、それが大人になって必要な時にフッとよみがえる。

子供の頃、文字を習って練習して字が書けるようになる。そうなったら自由に字を書くようになる。これの次はこれでその次はこれでというように確認しながらゆっくりと字を書いて練習したおかげで大人になるときれいな字が書けるようになる。そういうことを知らず知らずの内に知るということ、解らないまま(理解する前)に”知る”ということになる。

わかりやすいのは、「死」を理解する前に「死」を知るということ。私の経験からだと、愛犬の死。生前はその死に対してある程度は覚悟していて理解しているつもりでいたけども、実際にはその理解は無に等しいものであった。私はけっこう冷めてる方なので泣くことはないだろうと思っていたがグシャグシャになってしまった。我慢できるだろうと予測していたけどそんなことはできなかった。死は理解を超えていた。


・・・というようなことに関して「人は理解すると同時に理解していない状態で学んでいる」とカズオ・イシグロ さんが言っていた。



と、ここまで書いたが内容にまとまりがなく支離滅裂。何が言いたいのかわからなくなってきたので、やっぱりしばらく旅に出ます・・・。


ということで

最近のヘビーローテーションの”スメタナ 交響詩「わが祖国」より「モルダウ」”を。