夢について

よく人生は夢であるといわれます。

これは、この世は幻想であり偽りの世界である、といわれるのと同じ感じのニュアンスなのでしょうか。

人間は夢の世界(無意識)からやってきて、やがて夢の世界に帰っていく。つまり本当の世界は夢の世界なんだと考える人もいる。たしか映画「インセプション」でもそんなシーンがあったと思います。

そしてユングによると、夢は自分を知るためにはなくてはならないものだという。その人の普段は抑圧されて意識していない願望などが如実に現れるケースも多いとされる。深層心理学では、無意識の働きを意識的に把握するための夢分析なるものもある。

そもそも夢を見ているときはシータ波と呼ばれる脳波がでていて、これはつまり潜在意識が働いている状態。この時に思いもよらない想像力が働き、素晴らしい発見や発明が生まれることも多い。モーツァルトは夢の中で作曲し、デカルトは夢の中で難問を解いたというから夢を見るということはそれだけでクリエイティブな出来事といってもいい。もちろんこういう夢はそのことについてばかり考えていてこそ見れるもの。


私はと申しますと最近は、すし職人の弟子になっていて自分の握りの甘さを嘆いて師匠にもう一回握りを見せてくださいと言っている夢だったり、初のスカイダイビングにおいて着地の仕方がベテランの域だった。というもの。落ちる恐怖よりも初めてにもかかわらず、あまりにもフワッと着地できたことが記憶に残った夢でした。

こういった特に興味も抱いていない分野の夢を見るというのはなんなのか。

予知夢なのか・・・いや、いまさら寿司を握ろうともスカイダイビングをしようとも思わない。

上記のような夢はある程度言葉で説明できるからいいのだが、問題なのは説明不能な夢を見ることも多いということ。 そして地球外生物が出てくることも多い。かといってそれが怖いという感覚はなく夢の中ではただ、初めて見る生物だな、というスタンスで構えている感じ。


一番最近の夢は、ある嵐開けの河川の脇を数名で歩いていてると川から、深い緑色で黒光りしたオタマジャクシの造形をしたマグロぐらいの大きさの大量のソレが、ポニョが人間界にやってくるときのあの魚の波的な感じで下から上へ下から上へと波打っている様子を横目に歩いた先には電車の切符売り場があり、そこで2500円分の切符を買いそのまま電車に乗るわけでもなく自転車に乗って折り返す、という夢。この説明もあえてするとすればこうなるという内容であり、実際にはもっと変な、言葉では説明できない、もっと入り組んだ夢だったのです。


そんな夢って意味があるのでしょうか。

200年前にユングフロイトが夢についていろいろと言ってくれたおかげで現代では夢について深く考えることは普通となっていますが、それ以前は真面目に考える人はいなかったようです。

しかしユングより600年も前に、夢のことを19歳から死ぬ60歳まで記し、夢の中で師に指導してもらっていた「夢記」という本を残した日本人の明恵 (みょうえ)という人がいました。

明恵さんのことはこちら で紹介した「神秘家列伝」で知ったわけですが、ちょっと調べてみると対立関係に挙がっているのが法然さんでした。法然さんは親鸞さんの”悪人正機説”を先取りしていた人で、いわゆる「他力」の人。これを批判したのが明恵でありいわゆる「自力」の人という、そんな因縁があるお二人です。

法然といえばここ高松市にある法然寺 です。

法然寺は、建永2年(1207)に、法然上人が御年75歳で四国に流されてお住みになった小松庄生福寺の遺跡です。ここに松平家墓所を設けて、当寺院を高松藩松平家徳川家康公の孫であり水戸の徳川光圀公の実兄にあたる頼重公)の菩提寺とした。”

とあります。

ついでにいうと私の先祖は松平家専属の筆の商人をしていたそうです。そのことをうちの両親も含めつい4年前に知りました。これってけっこう大事なことじゃないですか。それを4年前まで誰も何も言わないなんて。



話を戻して、法然さんと明恵さんは対立はしていたけども両者に何よりも共通していたことは、当時の僧侶たちが自分の位階が上がることや、加持祈とうなどによって利益をあげることに心奪われ、本来の宗教性を失っていたのに対する激しい怒りと改革への意思だったのです。ただその改革の方向性としては法然はキリスト方面へ、明恵は釈迦(ブッダ)への回帰であった、ということだそうです。

これはまるっきり教育(=宗教)におきかえれるわけですが、この2人のどちらかを選ぶとすれば、昔は法然さん、そして今、心は明恵さんにある私でありますが、そういえば亡き愛犬の夢はまだ見ていない。



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