『愛、アムール』

前作「白いリボン」に続き2作品連続でカンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞。第85回アカデミー賞では外国語映画賞も受賞したドラマ。


あらすじ

“妻が病に倒れたことで穏やかだった日常が変化していく老夫婦の姿を描く。音楽家夫婦のジョルジュとアンヌは、パリの高級アパルトマンで悠々自適な老後生活を送っていた。しかし、ある日突然、妻のアンヌが病に倒れ、手術も失敗して体が不自由になってしまう。ジョルジュは病院嫌いな妻の願いを聞き、車椅子生活になったアンヌを支えながら自宅で暮らすことを決意。2人はこれまでどおりの生活を続けようとするが、アンヌの病状は悪化していき・・・。”


これは愛の物語なのだろうか。ミステリーに思えてならない。部屋に飾られている絵画にしろ使われている曲にしろ鳩にしろ、いろいろなところに仕掛けが施されているようだったから。

そもそもこの映画の中ではそれほど判りやすい愛は描かれていない。簡単には判断できない愛という意味で。映画が始まって数分の夫婦の会話のシーンですでにその関係性が、妻と夫の違いが完全に浮き彫りにされていて冒頭から夫婦間の愛的なものに違和感を覚えるところからはじまる。

予告編にあるセリフだけ取ってみてもすべてがノスタルジア娘が、両親の愛し合う声を盗み聞きして二人の愛を確かめていた、というセリフ。アンヌがアルバムを眺めながら「人生は美しい」といってみたり。夫が妻を楽しませようと引っ張り出してきた昔話に対しては「あなたのイメージを損なう話はしないでね。」という。それに対し夫は「どんなイメージ?」と問うが妻は当り障りのない返答。

過去の、それらしい愛、を求めているのか。みんな過去しか見ていない。過去に上手くいった方法を繰り返そうとしていて将来を見据えてはいない。

夫は妻に愛されたいし愛したい。しかし妻は何かを忘れようとしている。夫とは逆で、過去にあったであろう、それらしい愛、を今は取り戻そうとはしていないようにみえる。そんな妻に半身不随の事故が襲い掛かる。夫は愛でもって介護するうちに他者依存と重責により悪夢を見るようになっていく。


先日偶然にも「老老介護の現実」をテレビでやっていた。まさにこの映画と同じで、夫は妻を施設には預けず介護人の世話になりながら自宅介護をしていた。現在の同居介護者における男性の割合は30%らしい。そして男性介護者の特徴としては、完璧主義が多く、そのためすべてを背負い込み責任だけが重く圧し掛かり、精神的ダメージが蓄積され共倒れになるパターンも少なくないという。

この映画も介護生活に焦点を置きながら、ほぼすべてが夫婦の住むアパート内での描写で、その部屋の中で交わされる、娘夫婦、妻の教え子、アパートの管理人、介護人達の人間関係の様を画面の外から観察する形で進められていく。見方によっては他人の家の中にカメラを設置し覗き見しているような状態。しかし映画の冒頭で主人公の老夫婦がコンサート会場の客席に座っている姿をカメラが真正面から撮っている、つまり老夫婦と僕(観客)の目が合っている状態の画がある。もしこれが観客に対して、あなた方が見ている愛はなんですか?という問いかけであるとするならば、観客はその違いが痛く突き刺さるはずなのに、この映画タイトルによってどこか好意的な感情になるよう仕向けられているように思える。もし『愛、アムール(フランス語で愛の意)』ではなく『死、モール』だとしたら・・・まあ、多くの人は観ようとさえしないのだろうけど。


映画は、空虚な部屋のベッドに静かに横たわる死の描写から始まる。


死で思い出した「メメント・モリ」という言葉。古代ローマでは「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬのだから。」と、自分がいつかは死ぬのだからというアドバイスとして使われていたがその後のキリスト教世界においては反対の意味を持つようになる。魂の救済を重要視するキリスト教徒にとっては、死への思いは現世での、楽しみ、贅沢、手柄が空虚なものであることを強調した。死が意識の前面に出てくることによって、自分がいつか死すべきものであることを忘れるなという警句として捉えられた。直訳すると「死を想え」


夫ジョルジュが魂の救済を求るように弾くピアノ曲は、バッハ『我、汝を呼ばわる、主イエス・キリストよ』

“わたしはあなたを呼ぶ、主 イエス・キリスト
願わくば、わたしの嘆きをお聞きください
この日々の間、私に恵みをお与えください
わたしをどうか怯えさせないでください
真の道を、主よ、わたしは思います
あなたはわたしにそれを与えることを望んでいると、
あなたの為に生き、
わたしの隣人に役立ち、
あなたの言葉をそのまま守る為に”


苦しい痛みから逃れる術は死だけであり、それは妻にとっても夫にとっても愛としか捉えようがない。だからといってその死を肯定する術も誰も知らない。

たぶんほとんどの人は愛がなければ好意的に感情移入はできず、それがなければ否定的になる。この映画で描かれていた、妻を愛するが故の判断もまた感情に過ぎずない。ただその愛の対象が自分なのか相手なのか、それは人それぞれに異なるかたちとして存在する。判断というのはまず感情的、直感的に行われる。情報を分析して客観的に判断するためには、その状況に置かれた他人の感情を観察し、それを自分の感情と照らし合わせる。そうすることによって見えてくる中心にある自分の姿を本質と判断することができなければ、大切なものを失うことになる。感情のコントロールとても難しいことだけど練磨する必要がありそう。


では最後に藤原新也さんの言葉を。

“いつどこでだれがどのようにしんだのか、そして、生や死の本来の姿はなにか。

今のあべこべの社会は、生も死もそれが本物であればあるだけ、人々の目の前から連れ去られ、消える。本当の死が見えないと、本当の生も生きれない。等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識をたかめなくてはならない。

死は生の水準器のようなもの。死は生のアリバイである。”(藤原新也/『メメント・モリ』)


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