お釈迦様の考えたこととは

9月に引き続き10月の課題もお釈迦さまの言葉でした。

 

ここ最近お釈迦様のことをいろいろと調べていて作品展が遅れてしまいました。今年も終わりそうなので取り急ぎブッダが語った内容を少し紹介したいと思います。

 

お釈迦様のことを調べていると、これまでの認識が間違っていたということに気づきます。

 

まず、

「お釈迦さま=仏教」ではないということ

 

2500年前にお釈迦様が説いた教えは宗教ではなく哲学です。お釈迦様自身は仏教をつくっていません。

仏教はお釈迦さまの弟子以後が作ったものということです。

 

 

次に、

日本の仏教と混同してしまっているということ

 

仏教はインドでできて中国に広まり日本に入ってきました。それを日本人に合うようにアレンジしたものが日本の仏教(ただ、現存している仏教はある意味宗教法人)となります。

 

国によっても時代によっても仏教の中身は変化していきました。ほとんどの仏教はお釈迦様の言いつけを守っていません。人気を得るために御利益、祈祷、呪文、真言、儀式、儀礼など、人が好むもの、ありがたがるものを付け加えてしまいました。これら非科学的なものは、お釈迦様が「やってはいけない」と言ったことなのでした。

 

そんなお釈迦様の教えに匹敵する思想を信仰していた時代が日本(世界一の古い歴史と伝統を持つ)にはありました。

仏教、儒教道教キリスト教ユダヤ教など、外来宗教が入ってくる以前に原始の思想である『古神道(こしんとう)』(「お釈迦様の教え」と同じく教義、経典、教祖がないため「宗教」ではない)を信仰していたのです。

やがて仏教以後の宗教が渡来してくると、それを受け入れ習合ていった神道ですが、明治維新後に政府が国民をまとめるために「国家神道」を創設したことにより歯車が狂い始め、その後に起こる戦争の中で日本を戦争に導く指導的思想になってしまっため戦後教育では神道全体を日常生活から徹底的に遠ざけることになりました。

 

そんなわけで、日本人の原点ともいえる神道のことを知らない若年層は多いと思われますが、神道によって養われてきた精神性は日本人が世界に誇れる心である、思いやり、おもてなし、震災でも見られた強い結び、といったように神道を知らずとも無意識的に生活習慣に根付いていることがわかると思います。

 

 

次に、

「自分探しのためにインドに行く」というのは、自分というものは本来ならば無いにも関わらず、その無いものを探しに行くという矛盾した行為であるということ

 

自分で決めていると思っているすべての事柄は実は、歴史、社会、家族、友人などとの関わりによって決められているもので100%自分で決めていることはない。これはつまり、自分というものは本来無く、すべては他人との関係によって成り立っているということ。

 

これをお釈迦さまは 『縁起』 と言いました。

 

 

手塚治虫先生の『ブッダ 第6巻』で、菩提樹の木の下で瞑想をしていたシッダルタは、自分を一番不幸な人間だと嘆く奴隷として生まれたヤタラに、なぜこの世の中は不幸せな人間と幸せな人間がいるのかと問われこう返します。

「この世に幸福な人間なぞありはしない。ずっとたどっていけば誰もかれもひとり残らずみんな不幸なのだ。木や草や山や川がそこにあるように、人間もこの自然の中にあるからにはちゃんと意味があっていきているのだ。あらゆるものとつながりを持って。そのつながりの中でお前は大事な役割をしているのだよ。もし、お前がいないならば何かが狂うだろう。おまえは大事な役目をしているのだ。その川を見なさい。川は偉大だ。自然の流れのままにまかせて何万年もずっと流れている。流れをはやめようという欲もなければ流れを変えるちからも出さない。すべて自然のままなのだ。しかも大きく美しい。喜ばれ恵みを与える。お前も生き方次第で川のように偉大になれるだろう。」

 

この問答によってシッダルタは悟りを開きブッダ(悟った人)となります。

 

幸福な人間なぞありはしない。

この意味は、お釈迦さまが発見した絶対的真理「人生は苦(ドゥッカ)」であります。

「ドゥッカ」とはサンスクリット語で「苦」を意味しますが、この漢字は単に当てはめているだけなので日本語の意味に捉われてしまうと間違った解釈となります。

体調不良とか、残業が多いとか、夫婦間の争いが絶えないとか、景気が悪いだとかといった単純なものではなく、もっと根本的な苦しみが人間にはあるのです。

 

「ドゥッカ」は「不満」という意味でもあります。

人間はおいしいものをたらふく食べても、次は何を食べようかと考えます。

欲しい物を買っても、満足感は長くは続きません。また新しい物を求めてさまよいます。

満足することがなく、したとしても一瞬だけです。

気分を常に高揚させていなければ生きていけない麻薬のようなもので、そこに本質的な幸せはありません。

 

すべてのものは不完全です。

不完全なものから楽を得ようとしたところで、その楽も不完全です。やはりもっと欲しくなります。

人間も不完全であるから誰もかれもが不満を抱えています。

不完全だからこそ前進しようとする。不完全であることを受け入れることで完全にはなりえないことを知る。

すべては無常だと知る。

 

お釈迦様の考えそのまま(歪めず、付け加えず)を広めているて日本テーラワーダ仏教協会アルボムッレ・スマナサーラ長老はこう仰っています。

 

「五根(眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官)に依存して、快楽を得ようと努力しても、結局残るのは不満だけです。「もっと欲しい」という気持ちだけです。この限りのない不満を欲望・渇愛というのです。渇愛があるから、生きることに努力する。

生きることが、苦なのです。ですから努力すればするほど、生命が獲得するものは、幸福ではなく「苦」なのです。渇愛は苦の原因なのです。

すべては無常だから、不完全です。それに依存する私たちには、必ず不満が生じます。ですから、欲がある限り、苦があるのです。無常を発見するまで、苦が続くのです。」

 

諸行(存在と現象)は無常だから不完全。

 

人間は不完全だから生きるのだ。

 

    ということで、今回はここまでにしておいて
     
    お釈迦様の説いた真理を要約すると以下の四句(四法印)となります。

     

    諸行無常

     

    われわれの認識するあらゆるものは、直接的・間接的なさまざまな原因(因縁)が働くことによって、現在、たまたまそのように作り出され、現象しているに過ぎない。あらゆる現象の変化してやむことがないということ。人間存在を含め、作られたものはすべて、瞬時たりとも同一のままではありえないこと。

     

    諸法無我

    いかなる存在も不変の本質を有しないこと。すべてのものは、直接的・間接的にさまざまな原因(因縁)が働くことによってはじめて生じるのであり、それらの原因が失われれば直ちに滅し、そこにはなんら実体的なものがないということ。したがって、われわれの自己として認識されるものもまた、実体のないものでしかなく、自己に対する執着はむなしく、誤れるものとされる。

     

    一切皆苦

    仏教は生まれたままの状態、すなわち凡夫の状態は迷いの中にある苦としての存在と捉え、そこから脱却して初めて涅槃という楽に至ると考えて、この迷いの世界のありさまを<苦行>と表現する。この苦行は涅槃に至ったものを除いて例外なく存在し、皆苦の意味を持つ。

     

    涅槃寂静

    煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(静寂)であるということ。

     

    (岩波仏教辞典より)

     

     

    これまでは複雑で深い教えだなぁと思っていたら、調べていくうちに実は違っていて、お釈迦様は「縁起」と「空」のみを語っていた、ということがわかりました。その後にできた仏教が複雑化しただけのことだったのでした。

     

    では次回は『お釈迦様の言葉展』