禅と心

前回の記事、禅のすすめ 、で記した”あるがまま”というのはただ単に自然に身をまかせて何もしないでいる、ということではないということを書いておきたいと思います。

この辺はよく勘違いするところだと指摘があります。あるがまま、とは欲望のおもむくままにやりたいことをするのではなく、心の奥の魂の声に耳を傾けるということ、そしてその声に従うということ。心の声は本来、私利私欲を求めてはおらず、利他心(他人をおもいやれる心)による行動を求めているはず。座禅とはそんな声に耳を傾けるのための一つの手段でもあります。

そういうことをふまえた上での自己の表現を、そして夢を実現するために努力をする、ということも”あるがまま”であると思います。

夢を実現することにおいては、この世の中が自分を作り出しているのではなく、この世は自分が創りだしている、ということに気付くことが最善かと思います。

自分の世界の創り方は以前紹介した動画 を見ると良くわかると思います。


エイブラハム・マズローという心理学者が、欲求の階層構造論という小難しい学説を唱えています。

それは、人間には食べたいとか眠りたいといった生理的欲求があり、それが充たされると安全、安心への欲求が生まれてくる。その次に愛と所属の欲求が生まれ、次に他人から認められたいという承認の欲求が生まれる。それらが充たされたとしても人間はまだ満足しない。最後に、自分の可能性を最大限に伸ばしたいという自己実現の欲求が生まれる、というものです。



この小難しい学説を読み直してみて、ふと気づきました。

私自身の事で恐縮ですが、この学説の最後の欲求以外の欲求は以前ほど強く求めなくなっているということに。でもそれは充たされたというのではなくて、限界まで求めたけど諦めた、諦めたというと語弊があるので言いかえると、手放した、と言ったほうがいいかもしれません。

それは2年前に私自身に起こったある大きな出来事によるもの。(その当時において地元香川で一番陰湿とされる民事事件の被害者となる)


で、何が言いたいのかと申しますとそれは手放すということ。不幸は突然誰にでも起こる可能性はあると。しかしそうした人生の偶然性や不確実性に対する不安や恐怖は手放してしまえって事です。不確定な未来に思い煩ったり、くよくよ思い悩むのではなくて、いま、この瞬間に生きているということを観る、それが座禅でいうところの「止観(しかん)」というもの

それは、いま自分が経験している世界を一旦止めることで、あるがままの世界を見るということ。目の前の現実を見ているけれど心が動かされていないというまさに無心の状態。そうなることで深層意識にいるもう一人の自分に気づき心の奥の魂の声に耳を傾けやすくなるのではないかと思います。

とにかく意識変革してこれからの激動の時代を迎えうてる強靱な精神を養うとともに、今まで私達に埋め込まれてきたある種の常識は徐々に取っ払っていったほうがいいのではないか、と思っている今日この頃。