”弘法筆を選ばず”

本日は道具のことに関して少し。

日本の書の第一人者でもある弘法大師こと空海さんに関することわざに


「弘法も筆の誤り」 - 空海天皇からの勅命を得応天門の額を書くことになったが、「応」の一番上の点を書き忘れてしまった。空海は掲げられた額を降ろさずに筆を投げつけて書き直したといわれている。現在残っているこのことわざの意味は「たとえ大人物であっても、誰にでも間違いはあるもの」ということだけであるが、本来は「さすが大師、書き直し方さえも常人とは違う」というほめ言葉の意味も含まれている。

「弘法筆を選ばず」 - 文字を書くのが上手な人間は筆の良し悪しを問わないということ。ただし性霊集には、よい筆を使うことができなかったので、うまく書けなかった、という、全く逆の意味の言及がある弘法筆を選ぶ」として、逆の意味のことわざとして用いられることもある。      ウィキペディアより


というように、空海さんは実際はめちゃくちゃ筆にこだわりを持っていた人なんですと。

言葉は悪いですが、安い筆というものは字をうまく書けなくするものでもあると言えます。小学生でもせめて千円以上はするものを使ってもらいたいところです。ダイソーに行けば安く手にはいりますが道具に関しては少し気を使ってみてはどうでしょうか。幼い頃から良い道具に触れておくことは、その後の人生の中で良質・悪質を見極める訓練になるとも思えますし。ちなみに筆の毛質は、イタチか馬の毛の筆が初心者にも書きやすいものとなっています。


そういえば先日、「落ちる墨」という墨汁を使っている生徒がおりまして、こんなにも人に優しい代物があるのか、ということに驚きを隠せなかったのですが、確かに墨は衣服に付くと落ちないという困りもの。

しかしですね、墨は落ちないものですよ。服に付けて汚して親に怒られる、だからこそいかに綺麗に練習できるようになるか、ということを考えることで成長もするわけです。まぁ私なんかは小学校の書写の授業ではワザと手のひらに墨を塗りたくって、半紙に手形を押して、その横にサインをして女子に配っていたわけですが。

ついでの余談ですがこの頃が小学5、6年の時で、今までの人生で一番のモテ期でして、戻れるとしたらいつがいいかと聞かれたら即答でここです。


話をもどします。いかに綺麗にこなすか。これはなんにでもいえることで、料理に関してもそう。いかに汚さず綺麗に調理ができるかということ。清潔な状態に保つということ、後片づけをきちんとするということ。さらに言えばその場を、次に使う人の気持ちも考えて働きやすく気持ちの良い状態にしておく。簡単に言えば、「発つ鳥 跡を濁さず」

育児に関しても家事の手伝いを子どもにしてもらうというのは良いみたいですし。先ほどの一連の流れを、子ども自身が考えてこなしていける環境を作ることが大切で、その際に親が横から口をいちいち出すのは良くないとのこと。学びの楽しみは家庭教育にあるといわれています。その原点が家事なのです。


いま、題目とまったく違うとこ行き着いたことに気付きました。

話の内容が、そういえば先日・・・のあたりから、いかに綺麗に事を行うか、ということに変わっています。

実際には道具(鉛筆)のことを書く予定にしてたんですが、鉛筆の鉛の字も書いちゃいない。

ということで、

完全予告、次回は「鉛筆」について!!