心と体は一つです

「こころとからだはひとつです」

これは今月の硬筆課題文のひとつ。映画「マトリックス」のセリフからいただいたわけですが今回はこれについて。


まず映画の冒頭で、何が現実か、現実をどう定義するか、という問からはじまります。

今の自分の姿は自分の意識を投影したもので、記憶が映し出した残像であり、心が描き出すデジタルな自分でしかないと。五感(感じる、臭いがする、味がする、見える、聞こえる)で感じることを現実とするなら、それは脳が解釈する電気信号に過ぎない。

動こうとする前にはまず脳に信号を送りそして動き出す。これについてモーフィアスは訓練プログラムの中で「速く動こうと考えるな。速いと知れ。」「打とうとするな。打つんだ。」とネオを悟すシーンがある。つまり心は知っているはずなんだけどもまず頭で速く打とうと考えるから動けないんだと。

そして跳躍プログラムのシーンで、ネオはビルの屋上から向こうの側のビルまで跳ぶことができずに落下してしまう。この仮想の世界で落下して地面に顔を打ち付けたネオは現実の世界に戻ってきた自分が血を出していることに驚く。仮想での出来事がなぜ現実になっているんだ、と。その時にモーフィアスはこう言ったのです。


「心が現実にする。心と肉体はひとつだ。」


真実は自分の心がつくるものなんだと。危険は現実に存在する。でも真実(恐怖心)は心がつくる、ということ。


またあるシーンでは、スプーン曲げをしている特別な子どもがネオに悟す。「スプーンを曲げようとしてたらできない。ただ真実を見ようとする。記憶が映し出しているスプーンは無いんだ。だから曲がるのはスプーンでなくて自分自身なんだ。」


マトリックス(仮想現実)は人口知能がつくりだした世界であり、その世界に生きる人々は心が囚われている状態にある。モーフィアスは、「マトリックスはシステム(社会)でありシステムは敵だ。ビジネスマン、教師、弁護士、大工、それはまさに我々が救おうとしている心だ。彼等はあまりにシステムに慣れすぎているため盲目的にシステムに頼りきっている。」と言う。

だからこの社会に真実は存在していないんだよという。


まあでもそんなのめんどくさいやって人には荘子「胡蝶の夢」 を。


夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話。

ここではどちらが真実かを問題にするよりも、いずれも真実であり己であることに変わりはなく、絶対的なものなんてないから全てを相対的なものと肯定してそれぞれの立ち位置で振る舞えばいいよっていう。


それでは最後に野口晴哉先生による現実的な「心と体は一つ」論を。


“人間は小便を我慢しているだけではソワソワ落ち着かなくなり、お腹が空いているだけでイライラ怒りっぽくなる。アメリカには『精神身体医学』といって、心が体に及ぼして起こるいろいろな変動について研究をする分野があるが、反面、体の状態が心にいろいろ作用することを忘れている。お腹が空いてくると、不安になったり心細くなったりする、そしてもっと我慢しているとイライラしてくる。小便を我慢しているとソワソワしてくるというように、体が心に働きかけることは沢山にあって、胃袋の働きは好き嫌いということに通じ、泌尿器の働きは闘争し合うことにつながっている。体はどこでも皆、そういう或る独特な体の状態が心に反映するということがあるのである。”


(体癖の問題なのに心の現象だと思って心を治そうとすることについて)

“・・・体の捻れを治す方に注意を向ける必要がある。みんな「心のことは心で」とか「心のことは言葉で」とか思っているので教育が難しくなるのであるが、心も体も最初から一つものなのである。心と体は別々のものではない。人間は幽霊でもなければ機械でもない。だから心理学とか生理学とか言うように人間研究の分野を分けているのもおかしい。分かれている人間などいない、全部一つものなのである。”