老子道徳経 その3


黒本/高城剛

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Q、日本には宗教というものがあるのでしょうか?

A、かの山本七平は、日本の宗教すべて、たとえキリスト教だろうが、仏教だろうが、それらは、「日本教」の中のキリスト教や仏教で、他国のそれとは違うと論じました。日本における宗教は、すべて「日本教」と呼ばれるものの中に組み込まれているというのです。さらに日本最大の宗教は「消費活動」にあると思います。クリスマスも正月もバレンタインも、「消費活動」がメインにあると言っても過言ではありません。神様を讃え、家族と質素に過ごすようなことはありません。街中、メディア中、ジャラジャラ音を立てながら、消費活動を煽っていると思います。(中略)実に不思議な国だと思いますが、「消費教」が国教同然ですので、株価があがったり景気さえよければ、国民の多くは政治も実際の宗教も無関心である、と識者には見えていると思います。



Q、最近(2013年)の日本をどのように見ていますか?

A、日本は日本式儒教システムを土台にした封建制度社会主義だったのですが、今は、封建制度を守りながら新自由主義に移行しようとしているので、無理が生じています。

その教えは儒教のままで、地位や年齢の高い人が絶対です。「先輩」や「上司」には、逆らえません。また、かつての士農工商と同じように、日本は事実上の階級社会なのですが、多くの人は「お客様は神様です。」などどもちあげられ、実は様々なシーンで日々細かく多くの企業に集金されていることに、全く気が付きません。今も東京は世界一生活コストが高い街な上に、最低賃金が先進国で最も低いんですよ!


Q、高城さんがよく言う「日本式システム」とは、何ですか?

A、まず、「日本式儒教」を理解する必要があります。儒教とは古代中国の思想家の孔子孟子によって生まれた思想ですが、「日本式儒教」は、仏教の僧侶らが学ぶ、たしなみとしての儒教から独立させ(いわゆる儒仏分離)、なかでも朱子学徳川幕府によって封建支配のための思想として採用されました。その後、明治の「教育勅語」を経て今日まで連なる官僚支配の根底に流れる思想になります。そこでは、本来の儒教にはなかった、年長者や先輩は権力者であるという絶対的価値観を与えられ、これを小学校から教育とは別の「社会の仕組み」(=日本式システム)として叩き込まれました。つまるところ、日本の儒教は「目上の権力者が築いたフレームを壊すな」という教えなのです。そして困った時には、上下関係を正そうとするのではなく、下のものたちだけで互いに工夫し助け合え、という思想です。後者は今日「絆」や「和」という言葉に置き換えられています。本当は、フラットな上下関係やシステム変更がピンチを乗り切るのに大切なのは言うまでもありません。このように、「日本式儒教」システムが堅牢なため、後輩にあたる新産業の芽がいつまでも出ないのです。”



・・・なんだって。


ここ最近は宗教やら中国の儒教について少し触れてきて、最近読んだ高城剛さんのデジタル本にもそれらしきことが書かれていたので、宗教と日本式儒教というものについての高城剛さんの見解をここに転載させていただきました。

このデジタル本(kindle版のみ)は、高城氏のメールマガジンの中にある、読者とのQAコーナーをまとめたもので、前書きに「商業目的ではない個人的ブログやSNS等への部分転載は問題ありません」とありましたので遠慮なく思いっきり転載させていただきました。


では、本題の老子道徳経から代表的な一節を。


8章 

『上善は水のごとし 水はよく万物を利して争わず 衆人のにくむ所におる 故に道に近し』

(徳のある人の生き方は水のようだ。水は万物を育て養い、そして柔らかくしなやか。いつも自然に寄り添い、争うこともなければ威張ることもない。水はいつも低い所へ流れていく。徳のある人も人々の下に甘んずる。水は絶えず万物に施し、その見返りを求めない。水は万物をありのままに写し、嘘偽りがない。

人間も水のように生きることができて初めて、道に近づくことができる。)


これを一言でいうと、争うなということで、水のように争わなければ誰からも非難を受けないと。水のようにしなやかに生きるとは、四角の容器に入れば四角になり、丸い器に入れば丸くなるというように、その時の状況に素直に従うという柔軟な考え方をもって生きるとまた違う世界が見えるよと言ってます。


柔軟な姿勢・・・日本は八百万の神がいるといわれるほどいろんな神様を受け入れています。争いの元となるのは宗教の違いだったりします。戦争が最たる例でしょう。でも日本にはいろんな神様がいるのに神様同士が喧嘩することはありません。全部受け入れて日本人流にアレンジしているんですね。ほんと器用です。器用ついでいえば、日本語の縦書きと横書きが同時に存在する世界は極めて特殊だと言われています。もともとは縦書きのみだった日本に、江戸時代から明治期にかけてヨーロッパ文化が入ってくる。そうすると当然、横書きを相手にしなければいけない。

文字は時代を超えて記録として残るものだからその分、保守的でそう簡単には横書きには変えられない。そこで日本人は、この横書きと縦書きをどうやって共存させるか考えたようです。


ではここで、先日の出雲大社の記事に丁度よい写真資料があったので再びこちらに持ってきました。この写真では分かりにくいですが左下に落款印があります。


ということは、これは右から左に読むということです。

でもこれは横書きではありません。1行1文字の縦書きなんです。

他の例を見てみても、絵巻物は場面が右から左に展開するし、漫画にしても右から左へと読み進みます。

全集も本棚に並べるときは右から左でした。しかし若い世代になると横書きに慣れ親しんだ時間が長いため空間認識が変わってきて展開方向が左から右へと逆になってきたのです。

これを見るとなるほどとなりますよね。

ドラゴンボール』全巻。僕もこれだけは全部集めましたね。もうこの、つなぎ絵っていう遊び心からしドラゴンボールは最強ですよね。海外でも大人気なわけですが、英訳版のドラゴンボールは日本と同様に右とじになっています。でも外国人は裏表紙(左)から読もうとしてしまうため、裏には「読む方向が違うよ!」という注意書きを書いているんだそう。でも欧米では横書きに対応して左とじになっているようで。この辺だけ見ても日本人の、コトを受け入れて対応するという柔軟性が垣間見れたような気がします。

ちょっとここで、朝日新聞に連載中の『オチビサン』の漫画を見てみてください。作者である安野百葉子(あんのもよこ)さんのホームページの試し読みコーナー です。漫画なのになぜ横書きにしたのかという質問に対し安野さんは、「新聞が縦書きだから横書きなら方向が変わって目が留まりやすいと考えただけ」と。なんというか柔軟性を通り越した発想のすばらしさ・・・


というか、今回の本題はなんだったっけ?

そうそう、水のような生き方・・・か。

日本の漫画が国際市場で横書きを求める流れに従ってそのまま流されることのないように祈った方がよさそうですね。

水だけに。