怒りの鉄拳?

ツイッターの続き)

テイク・ディス・ワルツ』を観て。

はっきりいって気持ちのいい映画ではない。けども監督がサラ・ポーリーということもあってそのあたりは覚悟していたけでもやはり、ホンワカパッパとはならない。いろいろと考えなきゃいけない内容なわけです。

定期的にこういう作品はみておかないと人は大事なことを忘れてバカになっていくもので。今のテレビがいい例でしょうか。ダウンタウンの松本さんもずっと昔に言ってましたよね。「昔はテレビ側が視聴者を引っ張っていた。けども今は逆で視聴者のご機嫌を伺いながら番組を作らなければならないと。視聴者の感性がバカになってきているからテレビも面白くならない」と。

クレーマーなんかもそうで、子どもの教育に悪い番組を流すなっていうクレームもよく聞くでしょう。要するにすべての問題の発端は怒りなんですね。

で、映画の内容の続きなんですけども、

子孫を残すという動物的本能。でも人間なので本能の赴くままに行動していたら色々と問題が起きると。その問題が起きる原因の中で一番大きなものが「怒り」なわけで。この世で最も大きな問題がこれであると。


そこでいろいろ調べてみますと、歴史的に見れば「怒り」を捉えた心理学者で最も有名なのがフロイト。20世紀の最初の50年、時代環境でいえばビクトリア朝において精神分析が為されたと。

この時代環境ってのも大事で、それぞれの時代で「怒り」は変遷している。流行りの鬱病も元をたどれば怒りの抑圧に原因がある。

フロイトユングの決別に焦点を当てた映画『危険なメソッド』でもフロイトは怒りを抑圧していた。映画の中での彼の描かれ方だけを見てみるとどちらかと言えばユングの方に光が当たっていてフロイトの印象は悪かったように思う。でも実際のところはユング自身も、「自分はフロイトの業績の上にたっているにすぎない。」と言っているようにフロイトが説いたことはすべての基盤となっている。しかしただひとつの大きな間違いをフロイトはしてしまった。

劇中でユングスピリチュアリズムに対してフロイトは怒りに似た感情を持っていた。つまり霊の存在を恐れていた。だから思考体系を構築する際にスピリチュアルを除外しなければならなかったと。そこが大きな間違いだった。


フロイトは人々を抑圧から開放する方向へ導いていこうと意図していたけど、彼自身は感情を表現することを恐れていた。当時の心理学と精神療法において、感情は分析したり昇華したり、他のものに置き換えたりすることのみ許され、表現することだけはいけなかった。

これはイエスの教えを間違えて解釈したことによるもので、「右の頬を打たれたなら左の頬を差し出せ」という、怒りは恐れるべきものだという価値観が作り上げた概念から生まれた思考体系だったというわけ。ここが大きな間違いだった。


しかし、第二次世界大戦後の新しい動向により心理学で革命が起こり、怒りを抑圧して分析する代わりに感情を吐き出す(表現する)ことが精神衛生上の原則となる。こうして、”怒りの抑圧”と”表現”の2つの選択肢が確立するわけ。だからといって問題が解決するわけでもなく、「抑圧」(怒りというエネルギーの塊を奥に押し込めた状態)すれば胃潰瘍、胃腸病を患う。「表現」(怒りを外に出す)は重荷を一掃することができた思えることにより、ある種の高揚感が得られるが怒りの根底にある罪悪感そのものを強化してしまい出口がない状態に陥る。

そこで人間が本来持っている感情は、怒りではなく罪悪感(恐れ)であると考えると、罪悪感を外に投影したものが”怒り”であるから、怒りは基本的感情ではないといえる。怒りをぶちまけた時にいい気分になるのは、その瞬間に自分の罪悪感を一掃することができたと信じるが後に憂鬱感を発生させる。怒ったり攻撃したりすると後で後悔してしまう。この憂鬱感が意味しているものが罪悪感であり自己嫌悪であるとされる。

”怒りの表現”そのものを目的とすれば罪悪感を擁護することになり、怒りは攻撃という形のみで終わってしまうことになるからこれに対処することによってのみ怒りの表現の必要性が見えてくると。

そんなわけだから、「怒りの向こう側」を見ることで初めて怒りの底にある罪悪感(恐れ)を手放すことができる。

そしてその前に理解したいことは、生まれた時に授けられた”愛”の代替としてつくり出した感情が”恐れ”なんだ


ということでした。


あー難しかった。