その刹那

人間は進歩しているんだろうか。

科学的には確実に進歩しているし科学の進歩はとてもいいことのように思える。でも、全体的にみればどうなんだろうか。


脳科学者の池谷裕二さんの本をチラ読みして)

数年前に、ネズミに赤色を見せるという脳科学的実験が行われている。そもそも哺乳類は基本的に青色と橙色しか見えていないらしい。でも一部のネズミには橙色のアンテナが失われていて青色しか見えていないのがいる。そのネズミに、ヒトの赤色を感じるアンテナ遺伝子を組み込んでみたら赤色が見えるようになってしまった。このネズミは「世界で初めて赤色を見たネズミ」になったわけです。

異種の遺伝子を使って新たな能力を得ることが可能になった時代。人は進化の過程で先祖の遺伝子を受け継ぎながら新しい時代に適応するために自ら変化してきたようにみえるし、それ以前に福岡伸一さんが提唱する動的平衡という、体は絶えず変化していて、外界から受ける刺激に対して体を変化させバランスを保っている状態もある。筋肉や血液なども数日から数ヶ月単位で入れ替わっている、ということからもわかるように普段からなんかいろいろ変わってるんだろう。

でも脳って進化しているんだろうか。

人工的には進化してるように感じることが可能なのはわかったけども。

左脳的なものはコンピューターに取って代わり、これからの時代は右脳的な直感力が重要だというけど、そこでなぜ脳を注視してしまうのか。脳内で生じている現象は化学反応でしかない。「右脳を鍛えよう」なんてがもてはやされるけども、それはそれでいいとしても結局のところそれ自体も脳が創り出したプログラムにすぎないと。実際のところ普通に外で遊んでたら右脳は活発になるよね。


そして思考パターンさえも外界の環境や脳が操っているという。意識的には自由に選択している思っていても、実は無意識が脳にアクセスしている。だから思考パターンはある程度決定されている。自分の意思で自由に決めたと思っていることさえも実は無意識が脳に働きかけている。自由と思っていたことが実は自由ではなかったという。自由とはなんなのか。


マトリックス的にいうと、意識のチカラで脳による電気信号を遮断することができて初めて真実を観ることができる。

物質(見に見えるもの)であるから見てしまう。物体として存在する脳が秘密の鍵を握っているのではないかと期待してしまいがちだけど本来、科学は神を研究する神学をルーツとしてうまれてきたとされているから、やはり宗教だとか哲学の言葉にこそ答えがあるはず。

そんな意味で、見えないものを観るということとは、、。


哲学的になってきたので今度は哲学の視点から。
以下は西田幾太郎の哲学。NHKのシリーズ番組で取り上げられていたので書き起こしつつまとめ。(番組のナビゲート役は生物学者福岡伸一さん)


 赤いリンゴを見る場合、西洋哲学においては、私(主観)とリンゴ(客観)を分けて考える。つまり、私がこの世界の外からリンゴを客観的に観察しているという「主客二元論」で考える。

二元論では、”対象”と“人間”を分けて考えるため、どうしても人間中心になり、すべてが人間のためにあるというドグマに陥りやすい。西田幾多郎は、こうした認識で物事を考えるのは不充分であるとして、主観と客観が分かれる一歩手前から出発する必要があると考えた。


 リンゴの赤い色を見た瞬間、この赤は「リンゴが赤いのだ。」とか「私が居て赤い色を見ている」という、“思慮分別”が加わる以前の意識状態、つまり、私と赤が一体であるような状態を「純粋経験」と呼んだ。そしてその状態こそがあらゆるものの根元にあるとし、直接的経験を“直感”、思慮分別を“反省”とし、二つのあいだに連続して起こる意識のあり方を「自覚」と名付けた。


 自覚するということは、その時に自分の視点を止めるのではなく、止めずにその動きの中に自分も含まれているという純粋経験を大切にしながらこの世界を観ていく。経験が反省を生み、反省が経験となるという自己発展の作用は無限に続く動きであり、これが“世界の動きになる”ということなんだと。


 赤いリンゴを認識した時点で、分ける働きをしている。それは純粋経験にあらず。色を見、音を聞く刹那には、私が、目の前にあるリンゴを見ているという状態はない。が、その状態が一番見ているということ。

一般化、普遍化する働きを言葉がしている。言葉で言い表す前のところに物事のリアルな姿がある。


 何かを認識する主体があり、認識される客体があるという視点から出発する主客二元論を超えて、主と客が相互作用している状態からものを考えようとしたのが西田哲学である。


その西田哲学の根底にあるのが禅。西田幾多郎が好んで描いたのが禅の世界を表す円相図(円というのは中に空、無を持っていて、中心点をもつ思想とは違って真中を空虚にする)

そしてその円相図の隣に西田が書いた禅語「心月狐円光呑万象」(心月狐円 万象を呑む)

意味は、「心を一つの月(円)に喩え、その中に無限のものを孕んでいる。無限なものの根源という意が円の中にある。万象を呑み込んだ円というもの」

これを禅では悟りの境地を表すものとして重要視してきた。


これに対し福岡伸一さんは

「円相というものを見て、やはり非常に西田の哲学が私たちに喚起してくれるイメージというものには深いものがあると思います。だから生物というものはどんな場合にもまず円の中の空間、それが段々形を成して行くというふうに生命というものは現れてきているんですね。だから丸に空間がある、そこに何も決定されない何もまだ関係が行なわれない、そういうところから世界が始まるんだというヴィジョンは非常に生命的であるし、それを哲学の言葉が先取りしているなあと感じたました。」

と仰っていた。


赤色で思い出したけど、緑色の太陽があるのをご存知でしょうか。

グリーンフラッシュ(緑閃光)という現象です。太陽が地平線から昇る時と沈む時に、大気のゆらぎによって色が分離して赤い太陽が一瞬だけ緑に見えるらしい。空気の澄んだ場所でしか観測されないみたいで、小笠原諸島の父島では比較的観測できる確率が高いようです。

まあでも見られるのは一瞬ですから、「この緑は太陽の緑なのだ。そしてこの世界にいる私が緑の太陽を見ているのだよ。」とかって考えるヒマなんてないよね。だからもしかするとこの刹那の状態が一番リアルに見えているのかもしれない。

とにもかくにも、一番気をつけたいのは、(赤い)キツネと(緑の)タヌキには騙されないようにということ。そのへんに沢山いらっしゃいますからね。