古武術家 甲野善紀

今回は2年前にNHKで放送されていた爆笑問題司会の「爆問学問」という番組からの書き起こし。

ゲストは古武術家の甲野善紀さん。最近の僕のツイッターでよく取上げている人です。

甲野さんは、平成の世に生きるラストサムライといわれているけども見た目は普通の63歳のおじさんです。しかし金メダリストの吉田秀彦さんをも軽くひっくり返してしまうほどの身体技能を持っており、古武術をヒントに人の体の仕組みを徹底的に研究し、新たな技を次々に生み出しているお方。

その卓越した身体操作術は、スポーツや介護など様々な分野で応用されています。


まず私たちが憂えなければならないのは、昔の人々は自然と理にかなった身体の動かし方を知っていて、それは代々受け継がれてきていたのだけど今は、大げさに言えば人類何千年の歴史で初めてその伝承が途絶えてしまっている。例えば、物を縛ったり担いだりするという動作は、昔は器用な大人がいっぱいいたから子どもは自然に覚えていた。マニュアルではなく生活の中で自然と言葉を覚えるように会得していたし、ウエイトトレーニングにしても、現代は強くしたいところに負荷をかけ、重いものを重く感じて筋肉をつけようとする。でも、昔は全身を上手く使っていかに軽く感じるようにするか、というところで身体操作術は進化していったと。


これはつまり教科書にはない”経験”がものをいう世界。だけど、現代においては教科書から教わる、ということによって既成概念が作られてしまう。問題なのは、この既成概念を経験によっていかに縛られないようにするかということ。

しかしここには、伝承させるためには教科書を作らなければならず、その時点でもう概念がつくられてしまう・・・という矛盾も孕んでいる。

教わることというのは、同時にどこか不自由で、教わらないと見つからないが、教わったことで見つかることもある。そういった矛盾した関係といかに付き合っていくか、それが人が生きていくことである。

と甲野さんは言う。


昔からすれば今は携帯やインターネットとハイテクであるけども、私(甲野さん)から言わせれば今が石器時代で、その時代のハイテクを言い表すならば、武術の達人である、というくらいに身体を使いこなし開発していた。

つまり現代は便利すぎて体が不便になりました、ということ。


よく、強さ弱さ、というけども、鍛えて強くすることよりも、自分の中の常識的なところをいかに枠組みを外すか。普通なら先を読みたいと考えてしまうものだけど、できないかもしれないという予感や怯え、を先読みして占ってしまう気持ちをいかになくすか。それが強さなのではないか。

宮本武蔵が剣の極意は何かと問われた時に

「この寺の天守閣から向こう側の山まで幅3尺の板を渡した時に、地上での1尺ならば誰でも渡れるが高さが何十メートルもあると足が震える。しかし、幅は3尺であるとわかれば落ちる心配はない。それを見切れるのが兵法の極意だ」と言った。


つまり、ものを見るとは、いかに見切れるかということ。


(とまあ、ここは今月の硬筆課題文にも繋がってきていたりします。)


で、なぜものを見ることができなくなったのか、


昔は、精神と肉体で表現する距離が今みたいに離れていなかった。

それは、明治維新があって西洋の文明が入ってきた時に、日本人が持っていた心の動きから表される体の動きの効率が悪いみたいなことになり、体だけ科学的でないと恥ずかしいみたいなことになったことからによる。

科学的に論述しようとした時には、一つ一つ順を追って細かくし特殊な状況を限定しなければ結果がでない。体の動きというのは同時並列がいくつもある。


この同時並列で起きている生命体を記述できる助けになればと甲野さんは、文化のDNA、日本人のDNAを伝承するべく活動している。

200年前のものの再現、そして現代人に伝えるための工夫は計り知れないと思う今日このごろ。。。矛盾だらけのこの世界。さてどう付き合って行きましょうかね。