木になる気

前回は「集中」ということについて少し書いていましたが、今日はそれ以前のはなしを。


ほんの数日前のこと、小学1年生に男子に「集中して」と注意を促したところすんなり理解してくれたのですが、次の場面で「気を抜くな」と言った時に、「ん?」という顔をしたので、これはもしや「木をぬくな」に変換しているのではないかと思い、そこで彼に「気」の説明をしていたのですが途中で断念してしまいました。


僕はまず最初に、悟空の「かめはめ波」で説明をしました。が、彼は悟空のことをまだあまり知らない子でした。小学1年生にドラゴンボールまだ早いようですね。

次に、お腹が痛いときに手のひらでお腹をさすると治ることを話すと、それは彼も経験があるらしく理解してくれました。しかし、その手のひらから気が出ているということについては当然ながらまだ分からないのです。


気を真ん中に集める・・・。

悟空はこう言って元気玉を作ります。「みんな、オラに元気を分けてくれ!」

元気玉を作るには地球のみんなの気を少しずつ集めなければならず、その際には多くの時間を要します。そのため、気を集めている間はそれだけに集中しなければならないので無防備になり攻撃されやすいという欠点があります。それが元気玉を作るということです。

そう、あまりに集中すると無防備になる。満員電車で読書に集中しすぎていたら財布をスられても気づかない。スマホに集中しながら歩いていたら前から車が近づいてきていることに気づかない。というように、外界から攻撃を受けやすいのです。そのため、誰かの援護がなければフリーザにやられてしまう。
集中するということは、それだけエネルギーを使うということです。そして、気は宇宙のエネルギーなのです。神聖なものであり、そもそもが善の心がなければ元気玉は作れないのです。つまり善の心があれば誰だって気は放てるということです。だから、誰かの体調がすぐれないと聞けばその人に気を送るということは出来るはずです。想像力さえあれば遠方の人への遠隔操作も可能ですよね。

ただこれは、野口整体の『愉気法(ゆきほう)』にもあるように、治してやろうという「我」が出てしまうと治るものも治らない。何気なく手をあてるだけ。自分が宇宙のエネルギーを通すパイプ役に徹することがポイント。でも効いてはいけないところには効きません。たとえばそれがカルマ(業)であったりした場合とかは。


西遊記』の孫悟空の生まれ故郷である中国では、国家的なプロジェクトとして「気」の研究が行われていることは有名で、実際に国際的な場でもそれは使われていたりします。日本人にとっても「気」は馴染み深いものだと思います。目に見えないものは信じないという人も、「気」の付く言葉をたくさん使っています。元気、勇気、雰囲気、霊気、気配、気合い、などなど。ちなみに西洋には気という言葉はありません。サンスクリット語でプラーナ、英語ではエネルギー的な感じで訳されます。


あ、そうか!あの時の男子に元気の「気」と教えたらよかったんだ。今気づきました。元気の「気」を真ん中に集めたらいい。気が抜けていたら元気な字も書けないじゃないかと。

で、話を最初に戻しますが、そもそもなぜ「気を抜くな」と注意したのかというと、やはり雑念がすごいんですよ低学年生は。5分ごとに想念が湧き上がり空想が広がる。そんな状態で清書をしていたものだから注意をしたと。


そんな想念ってどうやったらなくなるのか。誰にでも効くのは「痛み」なんです。

しばくのではないですよ。

一般的にイメージしやすいのはヨガでしょうか。初心者にとってヨガのポーズはキツくて、とにかくもう体の筋が痛いんですよ。ヨガの目的のひとつには、その痛みに神経を集中させるというか、伸びている筋をしっかり意識する、そうすることにより他の想念を消す、というのがあります。もちろんそれだけではなくて、呼吸法にも気を使わなくてはなりませんが。どちらにしても

内側に意識を持っていくことで雑念は消せる、ということです。

これ書道も同じですよね。正座で足の筋が痛くなる。硬筆だと指が痛くなる。毛筆は利き腕の骨(内側)に意識を置いて書く。それにより精神統一ができ集中力もつく。というように、頭の中で飛びかう空想、雑念を一つに集めるということもまたひとつの気の集中なんだと思ったりした今日この頃です。


Dark Dark Dark - Daydreaming